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ココロの音色研究会
へようこそ!

ココロの音色研究会
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ココロの深い部分にある「音色」を探求し、自己理解を深めるために、タロットカードを使って深層心理を探究します。
3月~11月は自然の中での開催も可能です。ココロの音色を調和させることでより自分自身に近づくお手伝いをします。

ココロの音色研究会(Soul Tone Study Group)とは

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「ココロの音色」とは、

よく人の心を音に例えることがありますよね。ハーモニーや不協和音など。ココロの音色とは、そういった、言葉で言い表せない雰囲気や感じを指します。

例えば私、岩﨑が母親から言われた言葉にこんな言葉があります。 「あんたと私は殺しあいね」「あんたはレイプされて産まされた」 また、夜中に母から電話が来てこんなことを言われました。 母「今、お父さんに包丁を向けているの、お父さん殺したらあんたを殺しに行くから」 私「(間)その死に方は気に入らない」 母「どういうこと、」 私「死ぬのはいいけどその死に方は気に入らない」などと死について熱弁をして、最後には母と笑って電話を切った。その後震えて横になった。​ ・・・・・・ 未熟な人間が人間を育てるという核家族のシステムはそもそも間違っていると今は思いますが、当時は家族システム論などを駆使して家族集団の再生、自身の「生きる価値」の取り戻しを行ってきました。決して無駄な努力ではなかったのですが、存在しない「正しい形」へ戻そうとしたことには無理がありました。 今は縁切りが出来たことで楽に暮らせています。 もちろん縁を切ることが常に最良の解ではありません。健全なる家族システムを再生して家族皆で生きることが出来たら、家族だけでなく地域や集団において支えることが出来たら、きっとまた立ち上がれる為の肥沃な土壌となるはずです。 正解はありません。

毒親サバイバーや引きこもり体験者、その家族に☞

もったいない?ううん、もったいなくない。

せっかくの~なのにもったいない。 まだ~なのにもったいない。 私はよ~く言われました。未だに言われる。 でもそれってやっぱり好きじゃないのです。 「~なのに、もったいない」 は、「~」という客観的評価が本来発揮すべき結果になっていないって、評価なわけで。 例えばまだ「10代なのに引きこもりなんてもったいない」は、 10代という年代がたくさんの人やモノや学びに触れる溌剌とした時期であるのだから、それが実現していないのはもったいない、損をしているという意味かも知れないし、 そこには、そんな10代とは全く違う自分軸の10代を経験している「今という時間」をディスカウントしているところがある。 本当にもったいないのは、「分かってるけど出来ない」とその「他人軸の評価」について時間を費やしてしまうこと。 「分かってるけど」は、どんどん本当の自分から遠ざかる言葉。(あ、でもこれも本当はもったいなくないのだけど) 人生というのは、 山を登ったりバンジージャンプをしたり、下を向いたり空を飛んだり、次元上昇したり顔半分だけ壁にめり込んだり、タイムスリップしたり、幽体離脱をしたり、夢だったり、偉人だったり、弟子だったりして進んでいきます。 進化論的になんか進んでいないのです。 「もったいない」は単なる価値の提示です。 でも相手の「そう言ってしまう今という時間」も同じ価値です。 価値のやり取りは、本当と偽物のやり取りで、結局それってどちらも偽物になってしまう泥仕合。 本当というのは、消去法でしか見つからないし、手に入れた途端に偽物に代わるもの。それは太古の昔から既知のこと。 何を体現するかどうか。 今、輝かしく人の役に立っている人。支持されている感覚。胸を張る感覚。 今、誰にも見つからないように穴倉に閉じこもって、誰かに見つけてもらえなくてむぎゅ~って丸くなっている感覚。 どちらも同じ本当。愛しい体現。なんにももったいなくない。 私たちの感情、感覚、今ここの呼吸。すべて間違っていない。 物事の捉え方?悟り?そこにはなんの順番もない。未来も過去もない。そうそう、今だけ。 そしてその今は間違うことなんかない。 価値の問題は泥仕合。 私は未だに泣きじゃくることがあるけれど、必要だからそうするのよ。 身体を包む魂が、身体が呼吸するたびに私の中を探検して、出ていく。 吐き出された魂は、身体を包む本当と混ざって消える。 空気に違いがないように、私とあなたを包む魂にも違いはない。 ずっと勘違いしていたこと。身体が魂の入れ物ではなくて、魂が身体の入れ物だってこと。 これを見つけられたことに感謝。 私はこの人生で一度たりとも後悔をしたことはないのだけど、それは全てが正しかったわけでは全然なくて、 一生懸命やってきたから仕方ないと、ただそれだけなんです。 もっと自由自在に生きられるようにと、この身体の形を愛し、魂が通過する音色を愛し、息を吐きだすたびに身体の周囲を包む魂の振動を感じるのです。 大丈夫。 びた一文、もったいなくないのです。

生きることをやめたい方、その家族に

​例えば私は、戯曲を書いておりましたが、振り向くと常に首吊り用の縄がぶら下がっていました。いつも死にたい気持ちでいっぱいでした。オーバードーズで病院に搬送されたそうですが記憶にありません。 例えば私が完全に引きこもりになっていた時、一人暮らしのドアに「中で首吊り自殺をしています。警察を呼んでください」という張り紙をしていました。部屋の中ではブルーシートを引いた上に縄を首にかけて椅子に立つ私が毎朝居ました。あまりに勇気がなく椅子の端っこに片足で立ってバランスをとって、力尽きて事故のように吊ろうと試みました。試みは成功し吊ることができました。 ​私は意識がなくなりましたが、全身痙攣の後に目が覚めると、肝心の縄が外れて私は床に転がっていました。悔しくて泣きました。 ​ ​驚くべきことに、今そんな私が生きています。私は生きています。信じられないことです。 でもこれは幸運ではなく、「誠にそういうもの」だったのです。あなたにもきっと分かります。 ​ 生きることだけが必ずしも正しいわけではありません。当時私は確かに死んだのです。 何度も同じ生で生まれ変わり、またこうして生きています。 ​ 私はあなたの音色を聴きたいと思っています。 どうぞ会いに来てください。 一緒にホッとする飲み物を飲みながら自身の音色に耳を傾けて頂きたいのです。 ​(※訪問カウンセリングも承ります。ご相談下さい)

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