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boku-makuhari活動:劇評、感想

「僕の言葉に訳せない」

人は、何かを見るとき、それがとくに演劇であったりするとき、ストーリー展開やシチュエーション、つまりお話し(ものがたり)を理解しようとすることに努力する。 見ている者は、送り手がその努力に答えてくれないと判断したとき、見ること、聞くこと、感じることすべてを断念する傾向は強い。 このプロセスは、近代的な観客論であるが、現代でも有効であろう。 いや、有効どころか、まだまだ権力を持ち、時として性質が悪い、と私は思っている。 そして私もまた客席で、このバカに置かれた常態にさらされ、このプロセスを行ったり来たりする不安定な状態であることを告白する。 『僕の言葉に訳せない』は、このことを見事に笑い飛ばした逸品であった。 まず、冒頭から中盤までほぼ、ものがたりが理解できないのに加えて生理的にも特異な状況が続く。 これが単なる「ちょっと変なこと」「奇怪な状況」だけのものであったなら、見ることをあきらめるところだが、そうはいかなかった。 勘を総動員して舞台上の俳優の動きを必死で探る作業は、スリルそのもので、おどろいて舞台に向かった。 そんな興奮状態の中で、ゆっくりと浸透してきたものを確認してゆこう。 まず、登場人物はたいてい自己主張しかしない。 そのあやしい自己主張にまず興味を持つ。 人の話に耳を傾けることが対話の条件だとするならば、この戯曲に対話はない。 あるのは、増幅した被害妄想と自己正当化の罠に陥ったマゾ的な独り言、つまりつぶやきだ。 青年の悶々とした日々を中心に据え、世界がどのように関わり、その世界がどうやらゆがんで写る様が描かれる。 特筆すべきは、ある青年の肥大化した強迫観念が、世界を照らすのではく、それはそれだけでしかないという不自由さ小ささにある点だろう。 ここに新しい魅力を感じる。 個人が個人として存在するには、共同体(家族・国)の中でしか、はじめて自立できない構造を演劇は持っている。 ひたすらつぶやき、そしてそれは、実は自己主張を借りた、自らの葛藤なのではなく、社会の葛藤である。 個人は先に存在しないという前提が先にあるからこそ、それは恐怖であり、憎悪であり、懐疑である。この懐疑心だけが、かろうじて自己をつなぎとめ、最終的にそれはさびしい個人として観客に認知される。 こうした価値観は、一見、病的であるわけだが、社会そのものに類似している点に気が付くとき、極めて悲しく、今日の日本をよく示している。 肥大化したつぶやきがあたかも対話のような装いをし、観客を笑わせるに至るせりふ術は、岩崎の才能と呼ぶしかないだろう。 この才能を今後、どう開花させるかだが、心配せずとも、あと4本も待たずして周知のことなると確信する。 三浦基(演出家)

平凡に見える日常生活の中で、登場人物が極めてスリリングにとらえられている。 <僕の言葉に訳せない>というタイトル通りに、日常のドラマがいささか不可思議に展開する。 そんな中から、人間の日常の病的なところがさりげなく露出してくる。 タイトルも生きていて<僕の言葉に訳せない>なにかが露出してくる展開は見事である。 演劇にとって新しい角度からのサスペンスを内在させているこの作品は、ある意味で演劇に 対する極めてユニークな挑戦といえるのではないか。 清水邦夫(劇作家)

「2004年、僕は普通」

「2004年、僕は普通」

この芝居で強い印象を残したのは舞台美術の過剰性。舞台を飾ると言うより、芝居の内容を閉じこめるアートのインスタレーションのような感じだ。舞台はアパートの住人が共同使用する部屋なのだが、舞台奥の正面にトイレが露出し、天井には巨大なダクトが這い、穴蔵のような物置があり、廊下は必要以上に長く延び、床にはティッシュが埋め込まれた穴がある。住人は特製水の販売員の男、OLらしき女。部屋に出入りするのは、男の友人、男が付き合っている韓国人の女、なぜか物置で起居している男。皆社会の底辺で細々と生きているパッとしない人間達。販売員はペニスに痣があって、四六時中股間をいじっている。この部屋でネガティブな出来事が断続するのだが、葛藤の果ての追いつめられたレベルでのそれぞれの自己主張が、セノグラフィー(セットの訴求力)の強い関与を背景にして、辛うじて舞台に生気を与えていて、独特のリアリティーがはっきりと確保された。このリアリティーが2004年と刻印された「僕は普通」の内実なのだろう。根拠薄弱な基準としての偉そうな「普通」の圧力をはねのけて、僕という存在の2004年の普通はインスタレーションとして明示され、作品は面白く見ることが出来たし、なにより「普通」の概念を変革した。2004年のそれぞれの「ぼく」は「普通」なのだと。 江守盛夫(評論家)

「うっとうしい夕べ」

「突端の妖女」

「最高の前戯」

「うっとうしい夕べ」という公演を見に行ったのは一昨年の冬。舞台である喫茶店の前に机が置いてありどうやらそこは受付で、メガネボーイが1人座っていた。私はメガネくんがユニットの作・演出家である岩崎裕司さんだとすぐに気がついた。青年団の舞台ではかわいらしい役者さんだと認識していたのだが、驚いたのは受付の好青年が書いた当日パンフの文章がひどく攻撃的だったことだ。「卑屈は悪ですね。おどおどしていることは全くダメなことです。ものごとを素直に謝ることはいいことですが、目の前で間髪いれずにいじけることは悪です」。断定的に書かれたその文章は事実を正確に分析できずにもがく曖昧な種類の人間への痛烈な批判で私自身もそうであるからして赤面する思いだったが、しかし最後には「何を隠そうこの私自身がナイーブで卑屈な人間なのです」と書かれていたことに私は胸を撫で下ろす。同志じゃん!そして同志の芝居は始まった。それは夫婦の話だった。夫は勝手に妻のブラジャーを身につけていた。妻の愛を感じることが出来ない夫は行き場のない愛に泣く。そんな夫を蔑むように眺める妻。我慢しない人達がそこにいる。感情は他人に押し付ける為のものではなく自身として生きる為の精一杯の叫びとして舞台に生々しく存在した。「何を訳知り顔で生きているのだ、もっと頭の中はごちゃごちゃで卑猥だよ」と、岩崎さんはそう言っているのだと私は非常に感動した。そして当日パンフに書かれた「卑屈」の意味を知る。今私達に存在するぬぐえない違和感と不快感が時として人を卑屈にさせるけれど岩崎さんはそれを不快だと思いながらも肯定しているのではないかと。その肯定が彼の演劇なのではないかと。次の公演「最高の前戯」は、自分の心に仕舞い切れない愛が蠢き葛藤する人々がいた。全ては間違いではないのだという思いが充満して喫茶店は破裂しそうだった。私は縁あってかながわ戯曲賞を受賞したこの作品のリーディング公演の稽古に参加した。愛を失った女は言う。「わたし、何にもない。欲しいものもないし、望みもない。(略)自分の気持ちなんてどこにもなくて・・」と。セリフを口にしながらその言葉はきっと嘘だと思った。嘘をつく自分がどこかに必ず存在する、その肯定。私は岩崎さんのそんな「嘘のなさ」に惹かれてやまない。 笠木泉(劇作家・演出家・俳優)

「突端の妖女」

25人限定の客席で喫茶店の調度、トイレ、キッチンがそのまま舞台装置として使われる。設定はある地方の町の一軒家。この町には異様に高い煙突を持つ火葬場があり、それが唯一の名物らしい。この家を守っている青年の姉が海外から7年ぶりに帰ってくる。帰ってみると弟は若いヤクザと同棲していて、昔性的な関係があった女友達も同居、さらに高校生のプチ家出の「妖女」も寄宿していて、その少女に惑溺している高校の古文の教師が入り浸っている。女友達は姉に「私たちは大丈夫だよ!だって普通よりほんの少しだけ複雑なだけでしょう」というが、壊れかけている人間達に見えもする。ホモとかレズとかの呼称が埒外なように、男と男、女と女の性的な結ばれが自然で、狭い空間の目の前でそれらのシーンがあってもきわどくない。舞台中央の洗濯紐に少女のパンティやブラジャーを教師が嬉しそうに干すシーンが至近距離でも、客に同調させない。間近でも堅固な距離がある劇世界が確保されている。ほどきようもないほどの捻れた人間関係の諸相が明滅してゆくが、人物がはっきりとした輪郭を持ち、人物達の会話が自分たちの存在の有り様を問う存念を伏在させていて、それがあくまでも日常の暮らしの外観を持たせているのがサスペンスを生む。小さな出来事の起伏、人物達の出入り、見えない奥の部屋での騒動とかのシーンの強弱の移り変わりが、驚くほど岩崎は巧い。岩崎の極私的思考が芝居っぽさと両立する不思議。ほとんど無名の俳優達が演じるが、テクストから役の発火点を確かに掴んで、各々がリアルに役を生きていた。ただ、少女の小悪魔ぶりがややステレオタイプで、ラストの彼女が煙突に登るイメージが芝居全体からの有機的な押し上げになっていない。喫茶店の一軒家の屋内に巧みに変転させて、生に対する孤独、不安を唯一確かなものとして性・肉体に救いと拘わりを求める人間たちの実存を客の胸に刻印させた岩崎の才能には今後に大きな期待を持たせる。 江森盛夫(評論家)

「スリープ・インサイダー」
第一話「スリープ・インサイダー」

第二話「哲人の丘」

舞台。八角堂な布を張った床。正面、壁の一部は樽の内面のようにタガ付き。中央にダムウェイターならぬ食事供給ドア付き。八角の後方に見はりのように男女待機。  八角の枠を越えて行われ、拘らない。  お話。夢のように判然と繋がった2部構成。囚われているのか、逆に周囲を縛っているのか、どこにもいけない男が一人。でられるというその日々を、感覚でカウンティング。新参女子がやってくる。自分を偽る2人、やがて互いに暴きあい始める。  後半。倒れた男の傍らに、ハンマー女。そこに友人を捜すことで、自分を失ってしまっている男がやってくる。男と女、そして生きているのか死んでいるのか男は誰かの記憶を語り始める。自分の匂いがしない、つと女は言う。雨なのにいい天気、  3人いるが誰もいない。  安穏としてはおられぬ、心理ストリップ舞台。自己欺瞞、保身から自分自身を縛る=監禁された人々が出会い、容赦なくせめぎ合う。冷徹に、しかし恐れとなんだろ愛か、をもって。  妄想と現実、虚偽が判然とせず、物語という乗り物がない状況に、お客は晒され。  岸辺で留まるか、波立ちさかまく波間と覗く深海に踏み出すか。ありきたりの芝居との距離や個々の日常を越えて、自分の内に問わなくてはならない。という企みにうーみ。伊達や酔狂でつくってない、岩崎裕司演劇がガツンとくるねこ。  演出はガチンコ会話劇主体。床、六の下に潜り込む、袖の部屋で不穏な音を立てる  など、見せない趣向が得体知られず○。

ボクマク式「身も蓋もない演技入門ワークショップ」

◆WSアンケートより抜粋◆ ・今までの自信レベル(自己理解)がポーン!と上がった(女性) ・『演じる』ということが自分の中でスーっと楽になった気がする(男性) ・テクニック等を教わったと同時に悩んでいた自分にとってはカウンセリングもしてもらったみたいな感覚(男性) ・自分の胸の中につっかえていた何かを、解きほぐすための 武器をもらえた気がしました(男性)

演劇ブック鼎談(2003年頃)
 

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